抜歯をしなければいけない歯があると患者さんに説明をすると、
「先生、なるべく抜かないで、できるだけ長くもたせてください。」
「すぐにダメになってもかまいませんので抜かないで治療してください。」
などとおっしゃる方がいらっしゃいます。
いかなる場合でもできるだけ歯は抜かない方がいい、と考えてらっしゃる方は非常に多く、そのため、抜く必要があると伝えると、なぜ抜く必要があるかについてはあまり耳を貸して頂けないまま、上記のようなことを言われることがあります。また、前後関係を説明せずに、「歯は抜くな」、などといい加減なことを言う歯科医がいることの影響もあると思います。
それに対して「なんとかしてみましょう」というのは、聞こえはいいですが、場合によっては非常に無責任であることもあります。
抜歯の判断の基準を患者さんの要望に従って曲げてしまうと、後に(場合によってはすぐに)同じ歯にまたトラブルが起こってしまったり、隣の歯に悪影響が及んでしまったり、治療したとはいえない結果になってしまいます。抜かないことによるデメリットもあるのです。
実際に経験した例をあげてみたいと思います。虫歯で抜かなければいけない、という患者さんがいらっしゃいました。残っている健全な部分があまりに少ないの で、その歯を抜かずに歯をかぶせてもすぐにとれてしまったり、歯が折れてしまうことになるため、抜かざるを得ないことを時間をかけて説明しました。その患 者さんはいったん抜歯に同意されたのですが、抜歯の予約の当日にキャンセルをし、その後来なくなってしまわれました。3年ほど後に他の歯の治療を希望し、 来院された際のことです。
まだお口の中を見る前に私は
「以前抜かなければいけないと申し上げた箇所はどうされたのですか」と聞いてみました。
ずいぶんと考えに隔たりがあり、説明に大変苦労しました。以上のようなやりとりを含めずいぶんお話した後、とりあえず、その抜く必要がある歯を診てみたと ころ、ゴールドクラウン(自費の金のかぶせもの)が入っています。ところが、その歯は中で根が折れて化膿しており、歯茎から膿がにじみ出てきています。レ ントゲン写真をみてみると、歯を支えているあごの骨が完全に溶けてなくなっています。こんなになってしまっても痛くない、というだけでご本人は気づいていませんでした。
その歯が折れて化膿していること、抜歯をしないと両隣の歯もさらに悪くなる、という説明をしたところ、その患者さんは治療を受けた医院で相談してくる、とのことでした。その後当院には来院されていないので、どうなったかわかりません。しかしこの患者さんの考え方に従うと、この状況でも以前の「名医」を上回るさらなる「名医」を見つけることができれば抜かずにすむ、ということになります。
その患者さんの要望に応えるのはできる範囲ではもちろん差し支えありません。しかし、歯科医学的な判断基準というものがあります。言い換えれば適切な限度です。この限度を超えて要望に応える人間のことを「名医」とは呼びません。この横浜の「名医」は良心(倫理観)または/および能力が低い歯科医であるといわざるを得ません。(写真を撮って記録させてもらいましたが、これはだれが見ても反論の余地がないほどひどい治療でした)
判断や見解が分かれることは勿論ありますが、中には了見を疑わざるを得ない判断をするような歯科医もいます。今回はこのようなケースでした。
ご自分の求める結果が得られるかどうかだけを重要視する患者さんへの説明はこのように、歯科医側からみると大変に困難です。抜くのは名医じゃないからだ、腫れるのは下手だからだ、などの単純な図式を描いてしまい、それに従って善し悪しを判断されてしまうからです。
亡くなったマイケルジャクソンの侍医は大量(致死量)の麻酔導入薬(プロポフォール)を投与し、マイケルを死に追いやった容疑がかけられています。事実であるとして、いくら眠れない、薬を投与してほしい、という要望があったからといって、それに対して致死量のプロポフォールを投与することは許されません。そんな医師は名医ではもちろんありません。そればかりか殺人罪で取り調べをうけることになっています。
歯の場合、患者さんの求めに応じ常識外れの治療をしても死に至ることはまずありません。また抜歯すべき保存不可能な歯を不適切に治療した結果、その歯および隣の歯の歯周組織(骨や歯茎)を破壊せしめた罪、というのは立証困難な上、罪になるのかさえもわかりません。しかし、恥ずべきことであることには違いありません。私は治療を行った歯科医、その歯科医を選んだ患者さん、双方に責任があると思います。(歯科医の責任の方が大きいとは思いますが)皆さんいかがでしょうか。
注)前医の批判すべからず、という規範があります。
理由としては 前医が判断をした時点での情報が後医のそれとは異なる 患者さんを混乱させてはいけない 巡り巡って、医師全体の立場をおとしめる行為であるから、などが挙げられます。
このコラムではそれに反して前医を批判してしまっていますが、そうせずには伝えたいことを伝えることが不可能であるためです。普段の患者さんの診療に際しては前がどうであったか、というよりも今後はどうすれば良くなるのか、というお話をするよう心がけています。